こんにちは、ゆーせーです。
今年のGWにインドネシアを訪れましたが、帰国して既に一カ月ほど過ぎてしまいました。あっという間。
日本に帰ってきてからはいつもと変わらず平坦な日常を過ごしているわけですが、ラマレラ村で出会った異次元の体験は今でも心に残っていますし、ラマレラ村もインドネシアのちっぽけなレンバタ島に確かに存在しています。
今回のインドネシア旅ではほとんどラマレラ村しか滞在していないので、おもにラマレラ村についての感想です。
かなりニッチで全世界の99.9%はどうでもいいであろうこの村ですが、自分は大好きです!
生きるということについて
ラマレラ村で原始的な伝統捕鯨を通じて、銛で突かれ、苦しみながら血を流し、生き絶えていく海洋哺乳類たち。
人間と海洋哺乳類との闘いのなかで強烈に感じたのが人間は動物を殺して生きている。その上に立って生活できていることでした。
普段はスーパーマーケットで加工された魚やお肉しか買っていないので、余計にその当たり前の事実が目の前に疑い用もなく突きつけられました。
自分一人が生きるだけでも、今までにどれくらいの生物が犠牲になってきたのか。
頭では理解できても、肌で、感覚で、実際に感じたことがありませんでした。
それがいま目の前で実際に繰り広げられている。
生き物が死ねば皮ははげ、死臭がして、ハエが集る。
そして生き物の肉は人間の血肉となる。
人間が生きていくための当たり前のサイクルが確かにそこにはありました。
しかも相手はクジラ。地球最大の哺乳類です。
人間が生きていくライフサイクルのスケールの大きさが強烈でした。
また、そこでは人間が必ずしも食物連鎖のトップでもないんですね。人間も命をかけて狩りをします。
僕の旅が終わったあともまだラマレラ村で撮影を続けていた石川梵さんの近況で、ラマレラ村のラマファがクジラ漁で命を落としたと聞きました。
インドネシアのラマレラ村で手持ち銛(もり)でマッコウクジラをしとめる人のこと。
プレダン(舟)の上ではそれぞれの役割が決まっている。
ちょうど自分の旅の一週間後くらいです。
そのラマファはついに遺体も見つからずに海に消えたそうです。
信仰と暮らす
ラマレラ村はただ生きるためにクジラをとっているわけではありません。
もっと贅沢に生活したいなら村をでていけばいいわけだし、電気も夜しかない村ですが辛うじてWi-Fiもあるので、いろんな手があると思います。
実際に若い人たちは村を出ていっているそうです。
しかし、それでも彼らをラマレラ村に引き止めるのはきっとクジラ漁が信仰体現に基づいており、キリスト教の彼らにとってクジラは人間が食べるために神が用意してくれた生き物だからです。
なので、簡単にクジラを取れる近代捕鯨を拒否し、クジラ漁には木造船のエンジンの有無、クジラが取れたときの分配方法、クジラの頭の部分はラマレラ村の先住民に捧げるなど厳格なルールがいくつもあります。
自分はこの村に初めて訪れて海を見た時に遠藤周作の沈黙となぜかリンクしました。
こんなインドネシアの辺境の地で、圧倒的に大多数のムスリムの中の国でカトリックが静かに守られている。
ラマレラ村とかチベットの標高4000mを超える地域など、日本人からしたらとんでもないと思うような限界地域でも信仰は確かに育まれている。
秘境に行くと信仰の力がとても偉大だと感じることが多いです。
自分自信は神様を信じていませんが、人間は弱い生き物なので苦しい時、辛い時、幸せな時に寄り添ってくれて安心できる「なにか」みたいな存在がきっと神様だと思っています。
自分はそういった場所が大好きでこれからも写真を撮影していきたいと思います。
マンディには慣れない!
ここまで真面目に書いてきましたが、インドネシアでもっともカルチャーショックだったのはマンディかもしれません。
マンディとは沐浴のことで、インドネシアの安宿にはシャワーがなくて水槽に貯められた水をすくって身体にかけて身を清めるわけですが、もうなんでシャワーないの?って感じでした。
インドのどんな安宿でもさすがにシャワーはありました。
かたや、インドネシアの安宿のマンディにはボウフラわいてました(笑)
不衛生!
インドネシアはこれから何度となく通うことになりそうですが、マンディにはずっとなれないかもしれませんー